統計が嫌いな分析屋

先日、生徒さんとのお話の中で、統計のお話が出てきたので、ちょっと書いてみる。

分析化学をしていたのだから、当然に日々実験室で実験を行い分析をする。
分析したデータから、どれほどの誤差があるのか、どの様な兆候があり、そこからどう考えられるのか。どういう特性ならどうなのか… 的な事は日常的に考える訳です。

だから統計も使う。
その統計データの優位性・正確性を証明する為に、また数字をちょろちょろ、いじってちょろまかす。

統計学というのは、世の中的に今ちょっとトレンドです。
統計学の全般を否定する訳ではありませんが、世の中に転がってるデータの結構な割合で、どうでもいい統計結果や、自分自身を正当化するだけの統計というのも結構あって、結構意味の無いも多いです。

そして多くが、統計を取らずとも考えればわかる事。

統計学って、それを過剰に信じてる人もいるので、洗脳に近いんじゃないかなって思う事もあって、そもそも物事の本質の1部を知る為のツールでしかないのに、細かい数字をいじくり倒している内に、それが全てのように錯覚している人が非常に多いので、ハッキリいって好きじゃない。

学校の偏差値や標準偏差の計算もそう。そもそも公式が完璧じゃない。

では、ちょっと 統計っていうものがどういう感じか、別の表現してみましょう。


例えば、女性はお話が好きです。

元来、コミュニケーションを構築を重視するというのは、男性にはあまり無いもので、それが女性が女性として生き抜くための知恵や技術という事でもあります。

男性は単体での戦う力を重視しますが、女性は総和によって強化する傾向があります。

それは長年の進化の過程で、DNAに刻まれているものなので、小学生くらいでも、もし男子が女子を泣かせてしまう事があった場合

( ・`ω・´) ちょっと男子! 〇〇ちゃんにあやまんなよ!

っていうのが、絶対やってくる。

私も中2の時に、別のクラスの女子から呼び出し食らった記憶あります。
別に泣かした訳でもなんでもありませんが、なぜ複数人で来るのかが謎です(。´・ω・)?

このようにコミュニケーションを取るという事を男性よりも重視します。

総和が力を持つ。その為、女性の会話の中で、重視すべきは、ネットワーク構築する為に絶対条件となる「共感する」事である。というのは論理的に考えに行きつきます。

その総和となる組織の中での決定権を持つために、男性以上に一部マウントの取り合いというのが激しいのも特徴です。

これがいわゆる考察という事です。

話は変わって、世の中の女性から多くの声が上がるのが

(*‘ω‘ *) 解決策じゃなく話を聞いてほしいんだよね。

という事です。

ここが男性には難しい所で、女性から男性に発せられる会話というのは、男性からしたら問題解決を求められているとしか、基本聞こえません。

近所の〇〇さんが、××で、△△なの!

とは、近所の〇〇さんを潰してほしいという事なのか?または〇〇さんと同じ状況を作ってほしいという事なのか?

会社で〇〇があって、××だったの!

とは、会社の〇〇が発生する仕組みを変え、今後××にならないようにしたいから解決策を提示してくれ…という事なのか?

という風にしか聞こえない。

しかし、共感。寄り添う事を求めている状態で、解決策を提示しても、解決すらしないし、全然 私の事を見ていないという認識になる。

ここからが統計です。

こうした、女性からの声を拾い上げ

(*‘ω‘ *) 解決策を求めてない。
(*‘ω‘ *) 話を聞いてほしい

というのを統計データでまとめた結果、次の様な解を求める事ができます。

統計学がやるのは、こういう事です。

その結果、次の様に考えます。

(‘ω’) 共感してほしい。

(‘ω’)共感している時って、ようは「わかるぅ」って相槌打って聞けばいいだけ。

(‘ω’)でも、それは男性にとっては非常に苦痛な時間

(‘ω’)女性が好きなタイミングで、相槌が打ててもらって、男性も楽になる商品。

(; ・`д・´)そうだこれだ!

へぇボタンを改良して「わかるぅ」ボタンを作ろう!!

これなら、押すだけで、わかるぅ って言ってくれるし、セルフ共感が気軽にできる!

という商品が出来上がります。

これが統計学を利用して、商品化するというプロセスです。

当然、女性が求めているのはそういう事ではありませんよね。

では、ちょっとだけ、統計っぽい説明に戻ります。

統計分析の前段階として、個々のデータから方向性や傾向を算出するのに、回帰直線という様なものを使ったりします。

いくつかの点を捉え、その傾向を探る場合に使います。相関性というやつです

回帰直線を算出する際に、それぞれの点とどれくらい離れているのかという誤差がかならず存在します。統計はもちろんそういう誤差も計算対象には入れますが、その誤差が意味するところの理解をほっといて、とりあえず出した!

というのが本当に多い。

特に、化学反応や、宇宙空間における物理法則などなら正確性、つまるところ、再現性もまだ高いですが、この統計を人の動きのマーケティングであたりに活用すると、そもそも人そのものが非合理で動いているのに、一貫した合理性で結論を出すという所に、最近の統計の意味の無さを感じている所です。

人の場合はその誤差こそが、人という部分であり、誤差を適当に、0.0168 とか数値で表してる段階でえもはやデータとして破綻しているのです。

例えば Aさんが、Xという場所へ行く という1つの行動でも

理由1:忘れ物があっていく。
理由2:XにいるBさんの事が好きで会いに行く。
理由3:XにいるBさんに二度と会いたくないので、さよならする為に行く。
理由4:散歩

などなど、その誤差の種類は相当広いのです。

誤差こそが 人 という所をすっ飛ばしてしまうと、先ほどの、わかるボタン のような商品が出来上がるという事であり、数字に踊らされてしまうことになります。

という事で、今回の結論。

なので私もプレゼンで人を、欺きたい時は数字使います。

そして、これは小さい子も普通に使います。

クラスで持ってないのは、僕だけ!みんな持ってる

ってね。小さいから語彙が少ないからこうなりますが、クラス40名がiPhoneを持っているという雰囲気をもって親を欺こうとするでしょう?😆

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