正義が大嫌いな人間が道徳とやらを論じる件

タイトル通り

(*‘ω‘ *) 正義が嫌いな人間が、それっぽく道徳を論じます。

実際問題、正義と道徳って別に同じって意味じゃないんだけど、道徳=正義・正しさを教える感がある。

前にも言ったかもしれませんが、この世界に 正しさなんてものは無いので

(*`ω´*) 正義!

って言ってる人が好きじゃないんです。
好きじゃないというか…。
だって、それって1つの見方しかできてないんだもん。

閉鎖的。限りなく閉鎖的。 そして厄介なのが、己が正義と思い込んだら何も受け付けない。
閉鎖的な思考と、堅物。

だからこういう人達の側に近寄らないのが一番 賢明といえる。

歴史的にみて、人は自らが正義だと思い込んで、何億モノ、自分の正義に合致しない人へ殺戮の限りを尽くしている。

十字軍もそうだし、スペイン人のアステカ帝国や、インカ帝国も、スペインから来た神父によって、キリスト教に改宗を求めて、それを断ったインカ帝国の王に対して「こいつらを殺しても神は許すだろう」と非武装の家来を次々惨殺し、王を人質にする。 王の開放を願って出された莫大な黄金を受け取った後に、王は裁判の名の元に殺す。

というようなのが、ずっと繰り返されてきたのが歴史です。
その時の絵はありますが、ちょっとさすがに、ここで出すのはマズイので、文字だけにしとくね。

簡単に言えば、絵本 地獄ってあるじゃないですか。
子どもの頃に読んでトラウマなった人もいるかもしれない。
これ ↓

リアル これ って事です。
この絵本に記載されている事のほとんどを、実際にやっていたという事です。

悪い事したら死んだら地獄行くとか幻想を教えられるけれど。
この世界が リアル地獄だよ? って感じです。

ちなみに、私はですが、正しさとか悪さとか、ぶっちゃけどうでもいいす。
人の決めたルールなんて、この世界の秩序から考えたら取るに足らないものだもの。

植物も動物でも、細胞レベルでも、 地球レベルでも、宇宙・銀河レベルでも、原因と結果 というルールなのだもの。

とはいえ、私も一応 人間(*‘ω‘ *)

(; ・`д・´) だから税金からは逃れられない!

そこが辛いところ ( ´゚ω゚)・*;’.、ブッ

増税メガネから逃れる術が知りたい所です。

所得税とかより、ガソリン税恒久的に無くしてくれたら一番うれしい。
トリガー条項すら約束守れない メガネに何の感情も無いけども…。

結局の所「悪」とは「正義」が生み出したもので、そもそも正義なんてなければ、悪も無いのです。
光が強ければ強い程、影が濃くなるのと同じ原理です。

(*‘ω‘ *) どうでもいい

が最も争いを生み出さない考え方とも言えます。
とどのつまり、他人に干渉するな…。 という事ですね。

ちなみに、殺人がいけない事! というのはそうですが

聖書上の話とはいえ、神が人を殺した人数は、2500万人 規模によりますが、悪魔が人を殺したのは、数人だけです。

殺人数による畏怖さを言うのなら、北斗の拳の世界、いわゆる恐怖で人を束ねるという事と何も違わない。

でも、悪魔は悪い奴という事をイメージさせないとイケないから、ドロドロしたデザインで描かれる事が多いです。マッチョボディに、牛の頭とか。 生贄に牛さんの頭跳ねてたから、そのイメージなんだろうね。

これは中国でも同じだけど。牛さん可哀相😓

もっとも、私に悪魔を再現させたらこうなるんだが…。

( ´゚ω゚)・*;’.、ブッ 
梅田!
 梅田東通りに

居そう!

(*‘ω‘ *) 悪魔だ!
悪魔的だ!

色んな意味で…。

あんまり、事実を書いたら怒られそうだから、この辺にしておこう。


さて、道徳のお話でした。

HEARTSには色んな生徒さんが来ます。

シャイな人ももちろんいます。

スクールに通う Nちゃんは、とってもシャイな感じ。
教室に入ってくる時も、最初は無言で入ってきてました。

あまりの無音に私がビビる。
恥ずかしいんだね(*’ω’*)

でも、元気よく挨拶しよう! という

中学校の挨拶月間かよ って感じで、何度かやっていくうちに慣れてきてくれて
今では大分挨拶してくれるようになりました。

授業が終わると、みんなは

(*‘ω‘ *) ありがとうございました~ さよなら~ 

って帰っていくんだけど。

Nちゃんは

( ´・Д・)ゞ
お疲れ様です!

って挨拶してくれる。

( ´゚ω゚) バイトか!

って思うんだけど。 そんな彼女の お疲れ様です! が、私は結構気に入ってます。
どこで覚えたんやろうって思うんだけど。

そんな お疲れ様 挨拶をしてくれる彼女のキャラクターが凄く好きです。
これからも、 お疲れ様を聞き続けたい所です。

さて、なんで挨拶なのか…という所と、今回の道徳という所。
兼ね備えて、タイトル通り、論じる系したいと思います。

とりあえず、教育関係者が好きそうな レベルに合わせてみる。このレベル合わせが1番シンドイ所。 


教育基本法 第一条に示されている通り、「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」という人格者の完成と国民の育成の基盤である重要な要である。

それらを踏まえ、現在の変化の激しい時代にあって、子ども達に育んでいきたいのは、自らをかけがえのない存在と自覚し、よりよい生き方を自らで追い求めていく事であり、その為には、一過性の行動や、言葉尻だけの捉えではなく、自ら感じ、そこから考え、判断するという道徳的実践ができる子どもであると同時に、それを教える教師もまた、子ども達へ教えるというトップダウンではなく、共に学び、共に成長するという姿勢を持つ事が要求されるものである。

また、道徳教育というのは、人と人との関係を学ぶものであり、他の科目の様に、文字や数字・道具などの無機物とは異なり、そこには自分とは異なる、生命と意思、多様な価値観が存在する。学業そのものは、学校でなくとも独学でも学ぶ事は出来る。人と人との繋がりや価値観の相違は集団でこそ身に付くものであり、子ども達にとっては学校でこそ効果的に学ぶ場所であるといえる。

他者との関係性、社会秩序の中で生きる為にも道徳教育は全てにおいて優先される人格形成を育むものではある。

他者が理解出来ない事は、恐怖心を生み出し、攻撃性を持つ場合もある。それゆえ、最初に出来る相互理解の取り組みとしては「あいさつ」をすることであり、集団生活を送る上で最も基礎となる。

また相手へ敬意を払うという事、感謝をするという気持ちを持つ事が必要である。特に学生のうちは、生まれてから出来る事が増えていく事で、世界の中心が自分であるような錯覚を抱く。しかし現実はどこまでも大きく、どれほどの名声と資本を得た所で一人では生きていけない。感謝とは、前を見る事の重要性よりも、普段見えない自分の背中を見る行為であり、後ろから支えてくれている存在を理解する行為と言える。

自分一人で生きている訳では無いという理解があれば、自分と他者との間には何で繋がっているのかという理解に繋がる。それがルールという事になる。約束を守るというのは、当然ではあるが、自分が不利となった場合でも、ルールの一貫性を保てる理解と感情が必要である。小学低学年位までは遊びでも負けそうになるとルール変更するというのは日常茶飯事ではあるが、どの様な状況下であってもルールを守り抜くという信念にこそ信頼が生まれ、自らの不足を飲み込み成長へと繋がる。

道徳性とは、人間としてよりよい生き方を目指して行われる人格特性を育むものであり、生命尊重や思いやりなどの内面育成は教科書だけでなく、学校や友人関係などの様々な体験をはじめ、生活の全ての側面において形成されるものであり、1つの科目にとどまらず、全ての科目・全ての生活・全ての体験、そして全職員が道徳教育を展開していく必要性がある。

(; ・`д・´) もう眠いです!

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