気持ちを軽く…第五部

第五部 いよいよ。最後となります。
この『気持ちを軽く』シリーズは、私が良く聞かれる質問に対する返しをピックアップしてご提供しています。

みんな同じ様な事で苦しみ、疲れているという事ですね。特に人間関係においては…。
私がこれまで書いてきた内容。これから最後に書く内容は、当然ながら私の経験や私の勝手な価値観といえばその通りです。だから、これが正しいなんて事はありません。

ただ、私は科学的にしか物事を見れない人間なので、人間関係であっても、論理化というか、公式化というか…。パターンのようなモノを観察していて思った事をピックアップしています。
なので、ただ単純に思えば~とか、祈れば~とか、そういう適当な他力本願的な思考は全くありません。全て、科学的に解析できる事だけになります。

アトムじゃないけど、科学っこ。根っからの理系バカです。

60億以上にる人間の1パターンだと思ってください。
でも、あぁこういう人も居るんだなという位軽く、また他人の価値観に触れる事で、そこまで自分に無理しなくて良いのかもしれない…と少しでも気が楽になるならと思って書き出してみました。

この5部で 需要も無いだろうと思って〆に入ろうと思っていたのですが、生徒さんから需要ある!と言ってくれたので、ちょっと延長します。

では、第五部を書き出してみます。

良い様に考えればいい。

自分を取り巻くもの事と言うのは、その物事、そのモノに善悪というモノは無い。それがあるのは、それを観察している人の価値観・損益での善悪であって、事象その物に善悪は無い。

例えば、『日常的に放射線を浴びる』と言われれば、(´・д・`)ヤダ って思う事もあるかもしれない。
でも、そもそも地表のウラン鉱石で放射線を浴びなければ、生命が生まれる事も無かった。

脂肪は敵!と言っても、脂質がなければ細胞は崩壊する。 

周りに起こる事象は決して自分達の我欲の都合の良いように動いている訳では無いし、それらをコントロールできる訳ではない。

例えば、オセロのゲームがある。 白と黒の世界な訳だが、白と黒 どちらが正しいだろうか?
当然、白黒に正しさなんてない。 あるのは、自分が黒側なのか、白側なのか、という損益だけの話であって、表も裏もそれそものに善悪は無い。

様々な事象に対して善悪が無いのであれば、それを決めているのは自分自身という事なのだから、考えようという事になる。

あなたが良いように捉えられれば、良い事だし。 悪いように捉えればそれは悪い事となる。
なら、良い様に考えた方が圧倒的に気持ちも楽になる。 
コインの表を見るよりも、裏を見るという視点を持つ事の方が余程、大切だ。

他人に対する悪い感情は忘れる

他人に対して悪い感情を持つというのは2タイプある。
① 自分の意見と異なる。
② 自分に対して実害を与える。

どちらも「論理としての否定」か「実害としての否定」か、と言う違いではあるが、どどのつまり自分自身を否定してきた人物に対する感情。
これが悪い感情となる。

①の異なる意見の場合

その違いから何を学べるのかを考える。意見が異なるのは当然だし、異なってくれないと困る。同じ属性・同じ考え・同じレベル。これが100人揃った所で何も生み出せない。

異なりは新たな何かを生み出す。だから違って良い。
自分がどれだけ素晴らしく、相手が大した事が無いと思っても、1人で生きていける訳でないのだから、やはりあえてクォリティーを落としでも合わせる事も必要な場合もある。
ただ、精神的にも足を引っ張るだけの存在なら離れた方が良い。
体内には、それぞれの役割を持った各種細胞が協力しあって、この身体を形成している。
そもそも足を引っ張る事をする細胞というのは、ガン細胞であって、ガン細胞は免疫システムにより駆逐される。
あなたは、周りにいるガン細胞を相手にする暇など無いと思うが…。

②の実害を与える・与えられた という場合。

これに対しては、かなりマイナスの感情が生み出されると思う。
スターウォーズでいう、ダークサイド に落ちるとでも言うのか。
憎しみは非常に強い力を生み出す。あえてそれを増幅させて壁を乗り切るというのも1つだが、ただ長時間それをやると、次は自分の身体に影響が出る。 まさに諸刃の剣という事になる。

相手に対する復讐のオーラから生み出される力を使う事もできるが、あなた自身が幸せでありたいと思うのなら、難しいし、時間がかかるのは確実だが、デキるだけ早く 忘れる・許す という状態にシフトする必要がある。

これは相手の為ではない。 あなたをあなた自身から守る為の救済行動に他ならない。

他人を避難しない

別に良い子であれとは言っていない。  私自身、別に良い子ではないのだから。
だから、このBlogに道徳的観点で話しているという事は1度も無い。これからも。
そんな人間が「他人を否定するな」というのは、とどのつまり、自分に刃が向くからという利己的な意味で書く。

人は他人への批判が結構好き。 私は耳が良い方なので、結構レストランで食べていると他の席の会話が良く聞こえる。 スクールにいても、窓を開ければ、前の道で歩く人の会話というのも入ってくる。

会話の多くは、『否定』と『損得』が9割を占めるという位なモノで、耳には入ってくるが、正直そこから得られる情報は皆無に等しく、ノイズに等しい。
なので私は 耳栓 というモノがマストアイテムとなる。 

人を非難するという行為がなぜ、これほどまでに止まらないのか。
それは『自分への優越さ』『自己認証』といった、人間本来の欲求がそうさせているとも言え、誰かよりも勝っている!と思えるのは心地よい。

だが、これも結構 麻薬というか中毒性が強く、さらなる快楽を得る為に、その批判はさらに強くなる。

批判は当然、マイナス的な要素なのだから、相手との距離を離し、敵を作る要素にもなる。
その過程で、犠牲者も出し、あなた自身もまた敵対され、標的にされる事がある。

うっぷん晴らしで、アウトプットする事でスッキリするかもしれないが、あまりに出し過ぎると、あなたの放ったマイナスの要素は、ブーメランの様に、いずれ自分の首を撥ねる事になりかねないという事を忘れてはならない。

どうしても、むしゃくしゃして、出したい時は、ノートでも、WORDでも、想いのまま書き出してしまえばいい。結構スッキリする。

問題の本質は自分にあると認める

自分自身に関わる様々なトラブルにおいて、その選択に対して後悔する事はあるかもしれない。
私の様に、戻せない過去に対して考える事自体がバカらしい と吹っ切れる人もいるかもしれないが、あまりに考えすぎて自己嫌悪になる人もいる。

「考える事がバカらしい」と言ったモノの。 これは悩む事がバカバカしい。という意味で考えない訳ではない。 大切なのは、判断を間違ったと思うのなら、その判断をした、環境・状況・リソースの中でそれがベストだったのかと考える事は必要である。

その状況下でこれがベストなら、どの様な結果であれ、それ以上は無い。
だが、別のルートならもっと上手にやれたかもしれない。 

その別ルーツを考えるという事が大事なのであって、自己嫌悪になってる事そのものがバカらしいという事である。

その根本にあるのは、その決断をしたのが他人の責任ではない。という当たり前があって意味がある。

改めて自分

私たちは、自分の力だけで何かを成すという事は、デキる範囲が少ない。限りなく少ないといえる。
誰かが漁業をしてくれるから、魚が食べられるのであって、生活の全てを1人でやっている訳ではない。

互いが、互いを必要としアシストしながら 一つの個体として存在できる。

だから、多くの時間と労力と思考を、他者の為に費やす。ほぼ他人の為の人生と言っても良いかもしれない。

そんなルーティーンな生活をしている中で、自分自身を見失う事がある。
私は何の為に生きているのか…。と問いたくなる事もある。

人は自分で考え、思考があり、自由に選択ができ、生態系の上で一番上であるが故に、最も崇高な生き物だと考えられているが、実際の所、体内の細胞と何ら変わらない。

逆に感情があるが故に、判断をミスる。

赤血球が、熱や栄養を運び各部へ回るように、人もまた 『モノ・金・情報』をもって世界中を動く。
ルールに沿わない異物があれば、警察が動くように、白血球等の免疫系が動き、心臓が止まれば死ぬ様に経済が止まれば、人も死ぬ。

赤血球1つに対して、何の為に生まれてきたのかと言えば、栄養を運ぶ為に生まれたという事であり、それさえしてくれれば、この個体に何かを期待する事は無い。

あなたも互助の為に、必要な事さえしてくれれば、あなたは生きていけ、他者も助かる。
しかし、それ以外においては自由な訳だ。

やる事さえ、やってくれれば自由。

この自由を勝ち取ったのが人間という事になる。赤血球とは違う。

この自由をいかにように使うのかは、人それぞれであり
愚痴を言う事で、自分に価値を見出す時間として利用するのか。
マスコミの情報にうおさおするという楽しみ方をするのか。
部屋にこもって、ダラダラ過ごすのか。
さらに高みに持って行って、より楽しむ為に自己投資するのか。
自然に触れてリフレッシュするのか。

どれが1つという訳では無い。全部やってもいい。
それこそが、自由なのだから。

他者を意識するあまり、『こうでなければならない』と考えなくても良い。
あなたが食べたモノで、身体が作られる様に、あなたが望んだ行動と結果が、未来のあなた自身となる訳だから、好きに選択したらいい。

もちろん『自由』とは『自らに由来する』訳だから、その選択には結果を伴う。結果とは責任という事だから、それを念頭に選べばいい。

何を選択すれば、どういう結果になるのか… という凡その答えは、他人を見ていれば分かるし、その道の先駆者たちを見ていれば、模擬回答的な感じで判断は下しやすい。本を読むのも1つ。

『何の為に生きているのか』そういう事を言われた時の、私の回答はいつも決まっている。
『やる事やって、後は全力で楽しめ!』これ以外に無い。

生きているという時間を無駄にせず、1日1日を全力で。
明日、死んでも悔いが無いと思える程に、全力で生きていれば、もはや他人に干渉する暇もない。
誰かに何かを言われた所で気にしてもいられない。

結局、無駄に時間がある。今という時が永遠に続くという幻覚が人を無気力にさせる。
子どもや学生が『ヒマァ~・ダルィ~・めんどくさい~』というのは、この若い時期が永遠に続くといいう錯覚に陥っているからであり、幾ら大人が言った所で、見えないモノを実感する事はデキない。

幽霊が見えている人が、そこに幽霊がいる!と言った所で、見えない人には、実感も何も無いのだから。

明日死ぬ! その覚悟で生きるモノ以上に強いモノはない。

私は小学校の時に教室でやった、こっくりさん というのが昔は流行った訳だが、その時に65歳で死ぬとされた。

これを信じてる、信じてないという事はどうでも良い。
「自分以外の存在が65歳で死ぬと忠告してきた」 というのを、あえて意識づける事で、65歳というリミットを自己暗示でかけてしまえる。その理由付けになる。

だから、今という時間を無駄にデキない。
年金貰う時に死ぬ… ハッキリ言ってメチャクチャ損失だ(笑)

でも、それで良い。 この65歳という、私の人生の時間軸に打ち込まれたという事は、私は65歳を意識して生きていける。だから、働かなきゃいけないと同時に、今の内に遊ばなければいけない。楽しまなければならないという、良い意味での緊張感がある。

誕生日は、この1年を充実させられたか。ダラダラしてやりたかった事を出来てないんじゃないか?どれほど成長できただろうか?という、自分との反省会の日で、お通夜状態なので、決してケーキでワーイヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノワーイな状態ではない。

人生の時間に縛りをかける事で、今という一瞬の価値が高まる。


さて、とりあえず 第五部はここまでです。

これまでの第一部~第五部までは、どちらかというと、自分を守るという事を主点に置いて書きました。外部からの影響を軽減するという『盾』的な発想での考え方というのかな。
そんな感じです。

次回 第六部からは『矛』的な発想に徐々にシフトしていきたいかなと思っています。

という事で、また今度~!

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