気持ちを軽く…第三部

なんか春終わりそうで、夏の予感がする今日この頃…。まだ梅雨もGWもまだなのに…。暑い位ですね。
高気圧の関係ですが、この前まで凄く寒かったのに、寒暖差が激しく体調を崩しやすい季節ですので、皆さま気を付けてくださいね。

水分補給も忘れずに‥。

という事で、第三部 行きます。

他人に期待しない

多くの人にとって、相手を見るフレームは自分の価値観や経験から相手を見る。そして、こうだと思い込む。だから、自分がデキる事は相手もデキるものだと思いがちだし、自分がデキない事は、相手もデキないだろう…という、ある意味ので色眼鏡というフィルターを通して世界を見ている。

とはいえ、それが自分の子どもであれ、自分と違う意志を持つ人間であるという事を忘れてはならない。
相手がどれだけ悪意を持っていても、それが表に出なければ、あなたには分からない。
あなたはあなたと同じ様に善意の心を持っていると思い込むし、相手の行動は、その想いにリンクするように、あなたが勝手に想像して欠けた情報を補う。
悪意ある人間は、そういうことは分かっていて、シャキッとした見た目とスマートな笑顔で近づいてくる。私の様に、ファッションに興味が無い、やぼったい人間ではない。

人間の脳の仕組みそのものだから。

例えばこれを見て 3本の線の上に■が乗っていると理解すると思う

この黒い四角の部分に隠されている部分を、脳は状況から推測して繋がっているモノと理解する。
しかし、実際は全然違う

推測も全てはその人の知識量と経験量がモノを言うだけだが、相手からあなたを見た時の価値基準も当然そういう事になる。だから、あなたが相手を見る時、あなたの都合の良い様に相手を見る。
あなたにとって、ある程度心地よい状態で。

でも、そもそも別の人格と別の価値観を持っているのに、自分の価値観を押し付けて見みて、さらに相手に自分の都合を期待して、それに沿わないからといって、裏切られたと考えるのは、傲慢としか言いようがない。

そもそも、あなた自身も他者からすれば理解できない存在なのだから。

相手に期待する希望はあってもよいが、願望であっても命令であってはならない。
一人ひとり、異なる行動をとるのにはその背景になんらかの原因があるのだから。

完璧を求めない

横着・めんどくさがりな私からみたら、こんな無意味な事に力を使うのはなぜなのか? 逆に聞きたい位だけれど、完璧を求める人がちょこちょこ居る。

完璧を求める事と、高品質を求めるのとは違う。
完璧とはその人の完璧であって、決して世界で通用する高いレベルでは無いからだ。

完璧主義な人を見ていると、まるで自分のしっぽを追いかけて1人で犬が遊んでいるように思える事がある。きっと『完璧』という遊び道具で遊んでるんだろうなと思って見守っている。

断言するが『完璧』なんてモノは存在しない。 それは幻想だ。
完璧は常に移動する。あなたが完璧に到達する頃には、既に完璧はそこに居ない。はるか先に移動している。だから永遠にたどり着けない。

これは光の特性によく似ているし、宇宙背景放射の考え方にもよく似ている。科学っこの場合はこっちで考えた方が原理はわかりやすい。

私たちは日々移動する。 移動はただ歩いてる。車で移動する。飛行機で移動する‥。その程度のスピードでは実体験として何も感じない。
光速(約30万キロ/秒)という光のスピードをベースに考えていくと、止まっているようなレベルだから。
しかし光速のスピードに近づくと、推し進める為のエネルギー量は半端なく必要となる。高速の90%・95%… たった数%上がるだけで、ほぼ無限大に近いレベルのエネルギー量が必要となる。

完璧を求めるというのは、限りなく100%に近づける行為な訳で、そのエネルギー量は70%程度とは比較にならない程に莫大だし、全生命を使った所で、たどり着ける保障は何もない。

もちろん、人の生き方だから好きにしたら良いが、決して賢い生き方とは言えない。

賢い生き方とは、20%の力で80%の結果を出す事だ。その為の仕組みと頭を使えという事になる。

人は太陽の周りを 光速の0.61%(11万km/h)のスピードで1年間かけて回る、石っころの上で生活し、石っころは、光速の0.0083%(1500km/h)のスピードで自ら回転し、近くのスーパーまで光速の0.0000167%(時速3㎞/h)で移動して特売品を買う。

人間が考える完璧なんて、所詮…感はある。だが、上を目指すという事は忘れてはいけない。

自分と他人を比較しない

他人と比較するという行為は正しい。というよりも、同族のアベレージ(平均)を見るのに最も効率が良いという意味ではそう。

ただ良い様に使える時もあるし、悪い様に使われる事もある。
比較する事での良い事とは、自分の至らなさや不足を客観的に見る事がデキるという事であり、私が絶望の淵に行った時に、助けになったのは、やはり他者との比較で自分が如何にバカなのかという事を理解できたからである。
そして、それをプラスへ持って行く事が出来たからである。

逆に悪い比較とは、いわゆるマウントを取ったり、相手を貶す事や、自らの優越感に浸る為の比較である。

比較対象にもよるが、上にはどこまでも上が居て。下にはどこまでも下が居る。
だから、誰もがマウントを取る事もできる。 そんな誰でもできる『マウント』を取る事に力を使い、相手を愚弄する暇があったら、自分を高みに行ける経験でもしたらどうなの?的な事は思う。

『個性を大切に』と口で言うのは簡単だが、少なくとも 、誰かよりも優れておりマウントを取りたい!と思う気持ちが前面にでるようなら、あなたが『個性を大切に』と言うのは、ただの偽善者である。

他人の評価を気にしない

自分と他人を比較しない。同時に 他人からの評価もまた(゚ε゚)キニシナイ!!。という事も、必要である。
世の中には、自分の価値観を押し付けてくる人間がいる。 SNSをしていたら、そういう機会は特に多くなる。 

そして、正義マン的な人間も居る。自分の価値観こそが正義! というのは必ずいる。
( ゚д゚ ) ちっせぇ~!って思うけど、彼らの見えている世界の秩序がそうなのだから、そうなんだろう。その世界で勝手に王様になればいい。

人は全体像を把握したくて、血液型や星座や生まれや生活の土地柄などで区分しようとするが、実際問題 個性が存在する以上、60億の人口があるのなら60億パターンの個性があるし、60億の正解がある。
あなたの出した答えはあなたにとって正解であり、他人の正誤表に照らし合わせると間違いなのかもしれない。

そもそも、60億パターンに合致するという事すら実現不可能なのだから、一回一回相手の評価を気にしている事すら馬鹿らしい。 

安定した生活・安定した環境を守る為には秩序は大事。
だから評価を(゚ε゚)キニシナイ!!からといって秩序を守らないというのとは違う。

因みに、 世界の60億人に会う場合。 『こんにちわ!』と握手するという3秒という時間を24時間連続で会い続けても、凡そ 578年かかる。 

目の前に居る人。普段会う人 だけが人間じゃない。 あなたが一生かかって、ギネス級の長寿命を記録した所で、この膨大な人達に会う事すら、ままならないだけの人がこの世にはいる。

目の前の人間の評価を気にするだけバカらしい。

無理して好かれるな

誰でも、人から好かれたいと思う。嫌われる事を恐怖に感じるかもしれない。ことビジネスでは嫌われてしまうというのは収益に直結する。

先ほどの60億人というのを例に取ると、多くの人に愛されるというのは、60億パターンに愛されるという事であり、歴史上それをやり遂げた人は誰も居ない。

だから、この手の悩みについて聞かれた時、私が言うのは

( ゚д゚ ) あんた神を超える存在になりたいのかい?

と言う。

例えば、世界には様々な宗教がある。順位事に言えば、
1位:キリスト教 (33.4% 22億5000万
2位:イスラム教 (32.2% 14億3000万
3位:ヒンドゥー教 (13.5% 9億1000万
4位:中国とかの儒教系 (5.7% 3億8000万
5位:仏教 (5.7% 3億8000万
6位:ユダヤ教 (0.2% 1500万

それぞれの宗教にはそれぞれの神がいる。きっとそれぞれの神は、人類救済や極楽浄土的な信者にとって大切な教え、そして魅力があるのだと思う。

その神をもってしても、全世界の人達に愛されるという事はデキていない。
単一の神が愛されるという事は不可能だし、それを過去、宗教戦争等で何度となく繰り返してきて、多くの犠牲が出ても尚、実現しない。

それどころか、教えの解釈次第で、ドンドン分散していく。

つまり 全ての人に愛されるという事は不可能と思ってもらって良い。

そもそも、誰かに好かれる為に、あなた自身が変わらなければならない義務はない。

そして勘違いしてはいけない。
『誰からも愛される』というのは非常に魅力的ではあるが
最も高貴な存在とは『誰でも愛せる』である。

決断に自信を持つ

人生においても、日々の生活の一部でも、人は常に判断を迫られる。
ただの判断であれば簡単だが、これに責任を伴った場合、その判断は決断へと変わる。

決断を下す事は、決して楽ではない。伴う責任が大きければ大きい程に、選択を躊躇する。

私は何か決断を下すという場合『勇気を持て!』とは思わない。
『覚悟を決めろ!』と自問する。

とどのつまり、その選択をした後の結果について責任を持てるのか、どうか…という事なのだから、その責任の後に死になるのか生となるのか。誤りなのか…。 良くも悪くもそれの恩恵を受けるという事になる。その反動に耐えられるのか、どうかを今一度自分に問う。

何が正しいかなんてわからない。 
決断を下した結果が直ぐに目の前に現れるかもしれないし、それが数年後に自分を救うかもしれない。
どちらの判断をした所で、何も変わらないかもしれない。

未来が見えれば誰も苦労しないが、選択をする前の段階で未来は出来上がらない。
だから、今自分が持ちうるあらゆる知識と外部からの有益な言葉からのアドバイス。そして自分の感情を安定させて下したのなら、もう乗るしかない!そのビックウェーブに!

そして、その選択を限りなく良い方向に調節して誘導する。

選択はキッカケに過ぎない。 選択の後のフォローアップにこそ、その結果の有無が決まる。

あみだくじは、スタートしたら、後から線は引けない。
でも、人生の選択は、辿ってくる指先が押し迫らない限り、後から線を追加する事が可能だ。
少しばかりの修正はデキる。

ただ、自分の選択を傍観して、あぁ…。私の人生はこんなかぁ~。と思う人。
まだ行ける!まだ調整できる!とギリギリまでもラインを引いて補正する人。

それによって、選択した結果はいくらでも変わる。
最後の終着点に付く前まで、結果は分からない。

もう遅すぎるという事も無い。死ぬ直前まで選択はデキる。

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