敬語をどのタイミングで使えばいいのか分からない

先日、高校生に『どのタイミング・どの人に敬語を使えばいいのか分からない』という質問を投げかけられました。

敬語って、どういう事? 

ん~。敬う言葉?

そんな会話から、景色を見ながら会話してました。

そう。敬う だよね。 だから敬いたい相手なら使う事になるよね。
そして、それは言わなきゃいけないモノではなく、心から敬意を払っていれば、当然に出てくるものではあるけれど、それが出ないなら、敬意を払ってないんだろう?

ん~~~~(´Д`)

私の感覚では、目上=敬う 対象 という事にはならないので
ちょっとヒントとなるキッカケを伝えて、後は考えてもらう事にしました。

敬語は、文字通り『敬意を込めた言葉』です。
一般的に、目上=敬意を払う人 という様に 教えられる? かもしれませんが、私にとっては 敬意を払う相手に、年上も年下も、経験数も、職種・職業も全く関係ありません。

私を支えてく頂いている人。
全てが 敬意を払うべき対象 だからです。

尊敬の念を持つというのに、その対象物が何というのも関係はありません。
パソコンを作った人、設計したエンジニアにも当然、私は敬意を払うからこそ、大切にするし
心配してくださる方にも当然に敬意を払う。

ドライブしていてサービスエリアのトイレをキレイにしてくれているおばちゃん。本当にありがとうと思うし。
逆に、尿切れが悪く、モノが短いのに、遠距離から飛ばす奴。 お前が掃除しろ!(´Д`) とムカッっとなる事もあります。

おっっと、最後のは余計な一言でした m(__)m

自分が快適に過ごせる日常があり、当たり前だと思っている普段が存在するのは、そうした色々な人達の支えがあってこそですし、そこに対して敬意を払わないというのは、愚かな事です。

逆に『やってもらって当たり前』『権利だ』と騒ぐ人に対しては、虫を見るかのような目をするらしいです(知人いわく) 敬意は払ってないですしね。これは顔を作り変えても、出てしまうんでしょうか…。

人はどれだけスペックを上げた所で、人ひとりでは生きていけません。
だから、色んな人の力が必要となります。 

敬意を払うとは、そうした自分に無い力を借り、共に共存する為に必要な行為であり
逆に敬意を払わないというのは、相手との関係を断ち切るという意味でもあります。(私にとっては…)

なので、ちびっ子達と会話するときに、まず第一は『親に敬意を払え』という事を分かりやすく説明します。

親は紛れもなく、自分を無条件に愛情を与えながら支えてくれる相手であり、それを軽んじるという事が、いかに『生物』として愚かな事で、合理的にも叶わず、そうした行為が人間性として劣化しているのかという事を、アニメキャラや物語の比喩を使って説明したりします。

私は 善悪は 教えません。 
そして個人の判断は尊重します。それが子どもであっても敬意を払うという1つの表現だからです。
幼児であっても大人と同様に扱う。

同じ想いを持つ人・同じ価値観を共有する。 同じ様に必要する。
そんな中に

誰かが上でもなく、下でもない。
誰かが優秀で、劣っている訳でもない。
男女も 関係ない。 年齢の目上でも、目下でも関係ない。
経験年数も、年齢も。
ましてや、パソコンがデキる、デキない も全然関係ない。

感謝という敬意を持って接する事は、誰の為のでもなく、自分自身の為であり
敬意を払っていれば当然に出てくる言葉が敬語であり。

敬語が使えないというのは、何を持っても、自分自身がより多くの可能性を失い、そして自分の為に周りは誰も助けてくれなかったと叫び、這い上がれない世界へと落ちては、環境が悪いと嘆く。

こういう人と付き合えば、当然マイナスしか無いので、どんどん人が離れていきますよね。

敬語を使うべきか、どうか…が問題ではなく。
自分がどうなりたいのか という問題です。

周りの環境がどうであれ、自分がどうしたいのか という事ですね。とどのつまり。

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